寺尾常史の本名・生涯と死因は?妻が語った闘病と錣山部屋の現在を徹底解説
元関脇・寺尾として親しまれ、引退後は錣山親方として後進を育てた寺尾常史(てらお・つねふみ)さん。甘いマスクと鋭い突っ張りで人気を集め、「土俵の鉄人」と呼ばれた名力士は、2023年12月17日、60歳でこの世を去りました。
本名は福薗好文(ふくぞの・よしふみ)。公表された死因はうっ血性心不全です。さらに、2024年の『婦人公論』で妻の福薗伊津美さんが語った証言からは、若い頃からの心臓病との闘い、力士として体重を維持する苦労、入院中の様子、そして最期の「また明日ね」という言葉が明らかになりました。2026年現在の錣山部屋の状況も含め、その生涯を振り返ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 本名と経歴:本名は福薗好文。最高位は東関脇で、幕内連続出場1063回を記録した元人気力士です。
- 死因と闘病:死因はうっ血性心不全。妻の証言によって、若い頃からの心臓病と現役時代の過酷な体重管理が注目されています。
- 最期と現在:最期に妻へ「また明日ね」と声をかけたとされます。錣山部屋は元小結・豊真将が継承し、2026年も活動を続けています。
【寺尾常史とは】本名・出身地・身長・体重などのプロフィール
寺尾常史さんは、1963年2月2日生まれ。東京都墨田区で生まれ、鹿児島県出身の力士として大相撲で活躍しました。父は「もろ差しの名人」として知られた元関脇・鶴ヶ嶺。長兄の鶴嶺山、次兄の逆鉾も力士となり、相撲一家の三男として育ちました。
兄たちとともに井筒部屋に所属した寺尾さんは、端正な顔立ちと筋肉質で引き締まった体つきでも人気を獲得しました。大型力士が多い大相撲のなかでは比較的軽量でありながら、闘志あふれる相撲を取り続けたことが「土俵の鉄人」という異名につながっています。
日本相撲協会の力士プロフィールに掲載されている基本情報は、次のとおりです。
- 本名:福薗好文(ふくぞの・よしふみ)
- 四股名:寺尾
- 生年月日:1963年2月2日
- 没年月日:2023年12月17日
- 享年:60歳
- 身長・体重:185cm・116kg(公式プロフィール掲載値)
- 所属部屋:井筒部屋
- 最高位:東関脇
- 得意技:突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ
寺尾さんの取り口を象徴するのは、やはり突っ張りです。相手にまわしを取らせず、素早い攻めで前進する相撲は、持ち前のスピードと筋力を生かしたものでした。体格の大きさだけでは勝負が決まらないことを示した力士の一人です。
また、寺尾さんの生涯を理解するうえでは、現役時代の「寺尾」と、引退後の「錣山親方」を分けて考えることも大切です。前者は土俵上の記録と人気、後者は部屋を率いて弟子を育てる指導者としての実績を意味します。

【井筒部屋の現役時代】東関脇まで上り詰めた「土俵の鉄人」の記録
寺尾さんが初土俵を踏んだのは1979年7月場所です。1984年7月場所で新十両、1985年3月場所で新入幕を果たし、1989年3月場所には新三役へ昇進しました。最高位は東関脇。約23年に及ぶ現役生活で、数々の記録を残しました。
スポニチなどの報道によると、寺尾さんの通算出場回数は1795回、幕内連続出場は1063回で、いずれも当時の歴代4位。幕内在位は93場所に及びました。39歳まで現役を続けたことも、その息の長さを物語っています。
寺尾さんが特に支持された理由は、成績だけではありません。細身の体から繰り出す回転の速い突っ張り、土俵際まで諦めない闘志、そして力士としては珍しいとされた端正な顔立ちが、幅広いファンを引きつけました。
一方で、長く土俵に立ち続けることは、身体への負担とも隣り合わせでした。後年、妻が明かした証言には、勝負のために体重を増やす努力や、相撲を取る際に歯を強く食いしばっていたことが登場します。華やかな現役時代の裏側には、外からは見えにくい身体的な苦労がありました。
【経歴年表】寺尾から錣山親方へ、指導者人生の転換点
寺尾さんの歩みは、現役時代の活躍だけで終わりません。引退後に年寄・錣山を襲名し、自ら相撲部屋を立ち上げたことが、後半生の大きな転機となりました。
| 年月 | 出来事 | 主な意味・実績 |
|---|---|---|
| 1963年2月 | 東京都墨田区で誕生 | 本名は福薗好文。父は元関脇・鶴ヶ嶺 |
| 1979年7月 | 初土俵 | 井筒部屋で力士としての歩みを開始 |
| 1984年7月 | 新十両 | 関取へ昇進 |
| 1985年3月 | 新入幕 | 幕内力士として活躍を始める |
| 1989年3月 | 新三役 | 最高位は東関脇 |
| 2002年9月 | 現役引退 | 年寄・錣山を襲名し、後進の指導へ |
| 2004年 | 錣山部屋を創設 | 井筒部屋から独立し、師匠として弟子を育成 |
| 2023年12月17日 | 死去 | 60歳。公表された死因はうっ血性心不全 |
| 2024年2月23日 | 錣山部屋の継承が承認 | 元小結・豊真将が年寄・錣山を襲名 |
2002年9月場所中に現役を引退した寺尾さんは、年寄・錣山を襲名し、当初は井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたりました。その後、2004年に独立して錣山部屋を創設します。
指導者としての代表的な実績には、元小結・豊真将や、幕内優勝経験を持つ阿炎の育成が挙げられます。特に豊真将は、寺尾さんが育てた最初の関取として知られ、引退後は部屋付き親方として師匠を支えました。
力士としての経験を持つ親方が、弟子の稽古だけでなく、けがや治療、将来の進路まで考えることは、相撲部屋の運営に欠かせません。妻の伊津美さんは『婦人公論』のインタビューで、寺尾さんが弟子のけがに際して適切な治療を受けさせるため、各地の医療機関を訪ねていたことを振り返っています。
土俵上では自らの身体を酷使してきた寺尾さんが、指導者になってからは弟子の身体と将来を守ろうとしていた。その対比は、錣山親方という人物を理解するうえで見逃せない点です。
【妻の証言】若い頃からの心臓病と現役時代の体重管理
寺尾さんの死去をめぐって大きな関心を集めたのが、長年抱えていた心臓の病気です。妻の福薗伊津美さんは、『婦人公論』2024年6号のインタビューで、夫が若い頃から心臓の問題を抱え、治療を受けながら生活していたことを明かしました。
妻の証言によれば、寺尾さんは心臓の手術を受けるなど、長く病気と向き合っていました。現役時代には力士としての体格を維持する必要があり、体重管理も欠かせませんでした。
特に印象的なのが、本場所前の増量方法です。妻によると、普段の体重は約114kgでしたが、場所前には120〜122kgまで増やしていたといいます。そのため、午前3〜4時ごろに無理をしてサンドイッチを食べ、体重を増やす努力を続けていました。本場所が終わると、心臓への負担を考えて通常の体重に戻していたそうです。
力士にとって体重は、相手とのぶつかり合いや押し合いに関わる重要な要素です。しかし、寺尾さんの場合は、競技に必要な増量と、持病を抱える身体への負担という二つの問題が重なっていました。
妻は、こうした現役時代の生活が夫の心臓に悪影響を及ぼしていたのではないかと振り返っています。ただし、力士生活が死因に直接つながったとする医学的な因果関係が公表されているわけではありません。公表された死因と、妻が長年そばで見守ってきた経験に基づく受け止め方は、区別して理解する必要があります。
もう一つ、妻の証言から伝わるのが、寺尾さんの歯の状態です。最後の入院中、妻が歯を磨いてあげた際、奥歯がほとんど残っておらず、前歯もすり減っていたことに気づいたといいます。相撲を取る際に強く歯を食いしばっていたことが、その背景として語られています。
歯の状態だけで心臓病との因果関係を判断することはできません。しかし、長年にわたり身体に強い負荷をかける競技を続けてきたこと、持病と付き合いながら土俵に立っていたことを伝える、妻ならではの証言です。
【最期の40日】入院の経緯と「また明日ね」、公表された死因
寺尾さんは晩年、不整脈などの影響で入退院を繰り返していました。日本相撲協会は、2023年11月の九州場所を全休していたことも公表しています。そして同年12月17日午後8時27分、東京都内の病院で亡くなりました。享年60でした。
死因について、日本相撲協会の発表を受けたスポーツ各紙は、うっ血性心不全と報じています。心臓の機能が十分に働かなくなり、血液の循環に支障を来す病態です。寺尾さんが以前から心臓の病気と付き合っていたことを考えると、長年の闘病と最期の経過は、妻の証言を通じてより具体的に伝わってきます。
『婦人公論』で伊津美さんが語ったところによると、最後の入院では、かかりつけの主治医が海外にいたこともあり、普段とは別の病院に搬送されました。搬送後は約40日間にわたって意識が戻らず、その後、高度治療室と通常の個室を行き来する入院生活が続いたといいます。
意識が戻った際の様子について、妻は、夫の話を聞いて三途の川が見えたのではないかと感じ、苦しい気持ちになったことを振り返っています。病気と向き合う本人だけでなく、そばで回復を願い続ける家族にも、長い時間にわたる不安があったことがうかがえます。
そして、寺尾さんの最期を語るうえで欠かせないのが、妻との最後のやり取りです。伊津美さんによると、個室で面会した妻に、寺尾さんは「また明日ね」と声をかけ、手を振りました。妻が病院を出てから約2時間後、寺尾さんは心停止に至ったといいます。
この「また明日ね」という言葉は、妻の証言として伝えられたものです。医療機関が公表した死亡時刻や死因とは異なり、最期の面会で交わされた夫婦の言葉として、多くの人の記憶に残るエピソードとなりました。
長く土俵に立ち続け、引退後も弟子のために働き続けた寺尾さん。最期まで続いた病との闘いは、華やかな力士としての姿だけでは捉えきれない、一人の人間としての生涯を伝えています。
【告別式と2026年の錣山部屋】師匠の志はどう受け継がれたのか
寺尾さんの通夜は2023年12月22日、葬儀・告別式は翌23日に、東京都江東区の錣山部屋で営まれました。スポーツ各紙やテレビ朝日などの報道によると、告別式には角界関係者や生前親交のあった著名人ら約400人が参列しました。
参列者には、芝田山親方(元横綱・大乃国)、陸奥親方(元大関・霧島)、高田川親方(元関脇・安芸乃島)、浅香山親方(元大関・魁皇)、藤島親方(元大関・武双山)、鶴竜親方(元横綱)らが含まれていました。現役力士の大関・霧島、関脇・琴ノ若、阿武咲らも別れを惜しみました。また、高田延彦さんと向井亜紀さん夫妻、RIZIN代表の榊原信行さんら、相撲界の外で交流のあった人々も参列しています。
報道では、弟子の阿炎が出棺時に涙を流した様子や、沿道から「寺尾、ありがとう」と声をかけるファンの姿も伝えられました。寺尾さんは、自分のために多くの人の予定を合わせてほしくないという思いから、身内中心の葬儀を望んでいたと妻は振り返っています。それでも大勢の人が集まったことは、現役時代の人気だけでなく、指導者として築いた人間関係の広さを示しています。
寺尾さんの死去後、錣山部屋の継承も大きな課題となりました。部屋付き親方だった元小結・豊真将は、先代から託された弟子たちを守るため、師匠を引き継ぐ意向を表明。2024年1月場所では師匠代行を務め、同年2月23日、日本相撲協会の理事会で年寄・錣山の襲名と部屋の継承が正式に承認されました。
2026年現在も、錣山部屋は活動を続けています。日本相撲協会の公式部屋紹介では、師匠は元小結・豊真将の錣山親方とされ、所属力士には阿炎らの名前が掲載されています。部屋の公式サイトも2026年10月に新しい動画の公開を告知しており、稽古や力士の紹介などの情報発信が続いています。
つまり、錣山部屋は寺尾さんの死去によって消滅したわけではありません。師匠の交代を経て、後進の育成という役割を次の世代が担っています。寺尾さんの指導者人生を振り返る際には、育てた力士の名前だけでなく、部屋そのものが受け継がれている点にも目を向けたいところです。
【寺尾常史】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:寺尾常史の本名は何ですか? A1:本名は福薗好文(ふくぞの・よしふみ)です。現役時代は寺尾の四股名で活躍し、引退後は年寄・錣山を襲名して錣山部屋の師匠を務めました。
Q2:寺尾常史の死因は何ですか?心臓病との関係は? A2:日本相撲協会が公表した死因は、うっ血性心不全です。妻の福薗伊津美さんは、夫が若い頃から心臓の病気を抱え、現役時代には体重管理などの負担もあったと証言しています。ただし、力士生活が直接の死因になったと医学的に確定した情報は公表されていません。
Q3:2026年現在、錣山部屋はどうなっていますか? A3:元小結・豊真将が錣山親方を襲名し、2024年2月23日に部屋を正式に継承しました。2026年現在も日本相撲協会の公式情報に部屋と所属力士が掲載され、公式サイトでも活動が発信されています。
まとめ:【プロの結論】寺尾常史の記録と錣山部屋に残るもの
寺尾常史さんは、本名・福薗好文として生まれ、井筒部屋で力士人生を歩み、最高位の東関脇まで昇進した名力士です。幕内連続出場1063回、通算出場1795回という記録は、細身の体で長年土俵に立ち続けた努力を物語っています。
一方、妻の証言から浮かび上がるのは、心臓病と向き合いながら体重を維持し、力士としての責任を果たし続けた姿です。2023年12月17日の死去と、最期の「また明日ね」という言葉は、寺尾さんの人生を振り返るうえで忘れがたい出来事となりました。
寺尾さんの生涯を知る際に大切なのは、現役時代の華やかな記録と、病気を抱えながら歩んだ私生活、そして引退後に弟子を育てた指導者としての姿を切り離さないことです。心臓病と現役生活の関係についても、公式に発表された死因と、妻が語った長年の経験を分けて理解することで、事実に即した人物像が見えてきます。
そして2026年、錣山部屋は元豊真将の錣山親方に受け継がれ、阿炎らが土俵に立ち続けています。寺尾さんが残したものは、個人の記録や人気だけではありません。弟子を育て、相撲部屋を次の世代へつなぐという仕事もまた、その生涯を語るうえで欠かせない遺産です。 (出典: 寺尾 常 史(Yahoo!ニュース))